人はいま、この瞬間から幸せになることができる。
あなたは幸せですか?
本書では、今、まさにこの瞬間から幸せになることができると書かれています。
最初は「そんなバカな」と思っていましたが、読んで納得しました。
幸せとは主観なんです。
どんな状況に置かれていようと、例え貧乏でもあなたが幸せと思えれば幸せだし、裕福でも幸せと思えなければ幸せではないのです。
本書では幸せ、幸福とは貢献感であると定義しています。
そして幸福になるにはあなたが自由である必要があるとも。
幸福が貢献感とはどういうこと?と思うかと思いますが、正直説明が長くなりすぎるのでここでは書ききれません。
そこまで書いたら著作権侵害になってしまうので笑。
それだけ無駄のない内容の濃い本ということです。
ここではアドラー心理学の中でも劇薬だと思う考え方、自由になるために必要な考え方「目的論」と「課題の分離」を説明します。
正直、最初にこの本を読んだ時の感想は「厳しい…厳しすぎる」です。
そのため、「自由になりたい、幸福になりたい」と強く願い、厳しい考え方でも受け入れられると思う方にはおすすめですが、心の弱い方・弱っている方にはちょっとおすすめできません。
そのような人にはこちらをおすすめします。
反応しない練習 あらゆる悩みが消えていくブッダの超・合理的な「考え方」
アドラー心理学の考え方と似ているところが多く、より現実に即した優しめの内容となっています。こちらの記事で紹介しています→どんな悩みも解決できるシンプルな”考え方”を仏教から学ぶ!
では、そんな厳しいアドラー心理学のまずは「目的論」について見ていきましょう。
現状は目的の結果:目的論
目的論を説明するには、まずは原因論を説明しなければなりません。
原因論とは私たちに馴染みの深い考え方で、「〜だから・・・」という考え方。
例えば
- 頭が痛いから学校を休む
- あいつはうざいから嫌い
- 背が低いからモテない
など。
このような考え方は一見至極真っ当なように見えます。
しかし、アドラーはこれを否定。
あくまで何らかの目的に沿った現状があると考えます。
つまり上の例で言えば
- 頭が痛いから学校を休む→学校を休みたいから頭が痛くなった
- あいつはうざいから嫌い→あいつを嫌いでいたいからうざいと思いこむ
- 背が低いからモテない→本来の自分はモテないと思われたくないから背が低いのを言い訳にしている
ということです。
正直厳しくないですか?
僕は高校生の頃よく朝お腹を壊して遅刻や欠席を繰り返していたのですが、それは学校に行きたくなかったからということになります。
確かに、そう言われたら否定できない自分がいるのですが・・・厳しい!
このように、アドラー心理学では「原因論」ではなく「目的論」の立場をとっています。
なぜ目的論の立場をとるのか?
それは原因論で考えると人は変われないことになる、目的論で考えると人は変われることになる、から。
このように原因論の場合、過去が原因で今の結果があるということになります。
過去は変えられないので、今を変えられない。
例えば、先ほどの例で「背が低いからモテない」というのがありましたが、背が低いというのは成長期を過ぎた人であれば変わることはないので、モテないという事実もまた変えられないということになり、一生「背が低いからモテない」と悩むことになります。
また原因論だと、背が低い→モテないが真なら、背が低い人は皆モテないことになってしまいます。
しかし実際背が低くてもモテている人はいるわけなので、これはおかしい。
そこで目的論です。
目的論の場合、今の目的(未来)が原因で今の結果があると考えます。
目的は変えられるので、今を変えることもできる。
先ほどと同じ例では、「本来の自分がモテないと思われたくないから背が低いのを言い訳にする」が目的論になります。
本来の自分がモテないと思われたくない→話術を身につけたり身だしなみを整える、という正しい努力によりモテる可能性が出てくるわけです。
このように目的論で考えることにより、自分の心がけ次第で未来を変えることができると思うことができます。
因みに、本書では同じ様に「トラウマ」の存在も否定しています。
ここはアドラー心理学の中でもかなり厳しい部分なので、本書で確認してみてください。
この見出しでは過去に縛られない方法「目的論」を説明しました。
次は他者に縛られない方法「課題の分離」を説明します。
人は人、自分は自分:課題の分離
課題の分離とは一言で言えば、以下のようになるでしょう。
まずは「これは誰の課題なのか?」を考えましょう。そして課題の分離をしましょう。どこまでが自分の課題で、どこからが他者の課題なのか、冷静に線引きするのです。
そして他者の課題には介入せず、自分の課題にはひとりとして介入させない。これは具体的で、なおかつ対人関係の悩みを一変させる可能性を秘めた、アドラー心理学ならではの画期的な視点になります。
これは具体例で考えるとわかりやすいです。
本書では親と子の例が紹介されています。
親が子に「勉強しなさい」と言う。
よくある光景です。
しかしアドラーはこれを否定します。
「勉強する」と言う行為は子の課題です。
なぜなら、「勉強する」または「勉強しない」ことによる結果は子が将来引き受けるから。
こうするとアドラー心理学が放任主義の立場を取っているように思われますが、そこは違います。
「勉強しなさい」と子の課題に踏み込むのではなく、「勉強は自分でやるものよ。もし勉強がしたくなったらいつでも援助するからね」と「援助」はするけど「介入」はしないと言うことです。
そもそも「勉強しなさい」と言う親の頭の中には、「承認欲求」があります。
自分の世間体や支配欲のために子に「勉強しなさい」と言っていると本書には書いてあります。
しかしこの「課題の分離」の考え方を実践するのは相当難しい。
わかりやすい例では
- 前を歩いている人がいきなり止まってぶつかる
- 自分の方が忙しいのに妻(旦那)は何もしてくれない
- 子供が勉強しない
- 彼氏彼女の自分への扱いが雑
こんなことがあったらイライラしませんか?
しかしこれでイライラするということは、あなたが他者に期待しているということ。
期待するのはいいですが、このように期待を裏切られたからといって怒ってはいけません。
なぜなら、相手がどのように動くかは相手の課題だからです。
厳しいでしょう。
僕はこの章を読んだ時も、「なんて厳しいんだ!」と思いましたし、「課題の分離」を意識していても、未だに他者に期待を裏切られた時にイライラすることもあります。
それくらい実践は難しいです。
まとめると、課題の分離とは最終的にその課題を誰が引き受けるのかを見定め、自分の課題であれば他者には踏み込ませず、他者の課題であれば自分は踏み込まないと言うことです。
このように考えることで、相手がどのように動こうとそれは相手の課題であり、自分がどう動くかは自分の課題である、と割り切れるようになります。
もちろん、それは簡単なことではなく、「課題の分離」をするには「嫌われる勇気」を持つ必要があります。
「嫌われる勇気」というタイトルの意味
他者の評価を気にかけず、他者から嫌われることを恐れず、承認されないかもしれないというコストを支払わないかぎり、自分の行き方を貫くことはできない。つまり、自由になれないのです。
この部分がこの本の核心かと思います。
悩まずに自由に振る舞うには、結局のところ他者からの評価を気にせずに、嫌われることさえ厭わない”勇気”が必要だと。
そのために今回説明した「目的論」と「課題の分離」という考え方が必要なわけです。
もちろん、自由に振る舞うということは他者に迷惑をかけても良い、というようなことではないことは本書に書いてありあます。
そのように振る舞えば幸福にはなれません。
本書では今回説明した、自由になる方法についてさらに詳しく、厳しく書かれています。
また、最終目的である「幸福になる」ための方法について、なぜ自由になる必要があるのか、自由になり、次にどのように考えれば幸福になれるのかについて書かれています。
本書をすでに4回は読み直していますが、未だに飲み込めていない、理解できない、賛同できないところがあります。
一方、考え方としてとても役に立っている部分も多くあります。
本書はタイトルにもある通り劇薬であり、書かれていることはかなり厳しい。
それゆえに飲み込みづらいところもありますが、飲み込めた際には大きくあなたを変えてくれるでしょう。
良薬口に苦しです。
ぜひ読んでみてください。